第5話 番の鳥

 

 

 ハラート様。

 

 ハラート様。

 

 もう、ここでようございます。

 

 

 

 連れて――この子を、一緒に連れてゆくつもりでございました。

 

 けれど……冥府の道は、暗うございます。

 生まれたばかりの赤子には、歩かせとうございません。

 

 わがままをおゆるしください。

 

 この子に、ソントに――毒を飲ませることは、どうしてもできませんでした。

 

 

 ハラート様。

 どうか、この子を。

 

 この子は、この子だけは――

 

 愚かなことを申しますが、この子だけは、助けてやりたい。

 

 

 

 

 どうしてもお許しいただけぬ時は、どうか――これを。

 

 毒は、残っております。

 

 まだ。

 

 ――アガト公に賜りました。

 先月のことでございます。

 

 逃げられはしません。

 

 ダシュアンから脱出しようとしたところで、兵はすべての門に配置してある……と。

 アガト公がそうおっしゃっていました。

 

 いつぞや、王都を出た時のようには参りませぬ。

 

 生きて逃れることは不可能です。

 

 せめて苦しまぬようにと、情けをかけていただきました。

 ……苦しくは、ございません。

 

 

 

 

 

 

 ……てっきり、貴方様が私を殺しにきたのだと思っておりました。

 

 よもや――

 

 あぁ、目が、見えませぬ。

 

 

 ハラート様。

 

 どうか、この子を。

 

 アガト公には、諸共死んだとお伝えください。

 

 

 ――どうか、髪の一筋なりと、添わせてくださいませ。

 

 どうか――

 

 

 あぁ……

 

 夢を、みたのです。

 

 私は籠の中でしか生きられぬ鳥などではなく……

 

 空を――飛べるのだと。

 

 

 

 イオ。

 イオ。

 

 何処にいるの。

 

 私の魂を、どうか連れていって。

 

 あの時、私の心を攫ったように。

 

 

 私と、この子を。

 

 ソント。

 

 ソント――

 

 

 私の……

 

 

 

 空が――

 

 

 

 

 

・ 

 

 

 

 

 

 

 会議室には、捜査本部の面々の他、男がひとり、女がひとり、いる。

 

 男の手は、血にまみれている。

 手だけではない。

 服も、もとの色がわからぬほどに、赤黒い。

 

 

 女の方も、同じように血にまみれている。

 

 両者の違いといえば、男が落ち着いているのに対し、女の方が取り乱しているということだ。

 

 

 マサオの眉間には、深いシワが刻まれていた。

 

(遅かった)

 

 万能ならざる人間の知恵では、及ぶものと及ばぬものとがある。

 

 

 ――間に合わなかった。

 後悔が押し寄せ、だが、すぐに消える。

 

 無意味な感慨だ。

 

 

「――……」

 

 男は、黙っている。

 女は、震えている。

 

 コンコン、と扉が鳴って、ウルラドが入ってきた。

 

「――身元の確認が済みました。伯。間違いありません。殺された男は、フェンド・デン・ヴェルナ男爵。――ミーファ王妃の実の兄上です」

「ご苦労だったな、ウルラド」

「さ、どうぞ。ハラート王子」

 

 ウルラドに続いて、ハラートが入ってくる。

 

 会議室には、マサオの他、シュルムト、ウルラドと、ハラート。他に一組の男女がいた。

 

 ハラートが椅子にどっかりと座ったところで、マサオは口を開いた。

 

「この男を知っているな? ハラート」

 

 ふん、と鼻息を吐いたあと、ハラートは答えた。

 

「ユーゴ。……父の……アガト大公の側近だった男だ。何年か前に隠棲している」

 

 無反応だった男は、わずかに目を上げた。

 こげ茶色の髪は、半ば白い。

 

「ご無沙汰しております、ハラート殿下」

 

 男――ユーゴは小さな声でハラートに挨拶をし、血まみれの胸に手を当てる。

 しかしハラートは、挨拶を返すことなく目をそらした。

 

 

 マサオは、まず一同を見渡す。

 

「この場のことは、この場限り、他には決して漏らさぬことを、本捜査本部の長として誓う。各々、改めて確認してくれ」

 

「誓おう」

 

 シュルムトが最初に言うと、男と女を除いた全員が、誓う、と宣言した。

 

「では、始めるとしよう。まずは、このご婦人から話を聞き、しかるのちにお帰りいただくのがよいと思う。異論はあるか? 御一同」

 

 それぞれが首を横に振る。

 マサオは、女を「お聞かせ願えるか?」とうながした。

 

 女は、青ざめた顔を上げた。

 

 小柄な、栗色の髪の女だ。

 取り乱した様子は、ここに来て落ち着きを取り戻したように見える。

 

「恐れながら……申し上げます。フェンド様を殺したのは、この男です! いきなりお邸に入り込み、めった刺しに……あのような惨いこと、悪鬼でもなければできるものではございません! あまりに……あまりに惨うございます!」

 

 キッと眦をつりあげ、女はユーゴを指さした。

 その指が震えている。

 

 ユーゴは、表情ひとつ変えず黙ったままだ。

 

「貴女は、フェンド殿の殺害現場を御覧になられたのか?」

 

 マサオが問うと、女はコクコクとうなずいた。

 

「はい。たしかにこの目で。突然、この男が、お邸を訪ねてきたのです。客間で言い争う声が聞こえたあと、フェンド様の悲鳴が聞こえました。駆けつけた時には、胸から血を流したフェンド様が…この男の手には、血が滴る短剣が握られていました」

「なるほど。フェンド殿のお邸にいた、他の使用人たちから聞いた話とも一致している。疑いをはさむ余地はないと存ずる。――いかがかな? ユーゴ殿」

 

 マサオが問えば、ユーゴは深くうなずく。

 

 女は、はらはらと涙をこぼした。

 

「フェンド様に、なんの罪があったというのでしょう……」

 

 顔を覆い、女は肩を震わせて嗚咽をもらした。

 

「ご協力に感謝する。ご心痛のことと思うが、これより市護軍の取り調べにもご協力願いたい」

「喜んでご協力させていただきます。フェンド様のご無念はいかばかりかと――」

「夜な夜なヤーヌの森に立ち、なにをされていたのか。そちらで釈明されるとよい」

 

 女の嗚咽が、ぴたりと止まる。

 

「わ、私はなにも――」

「なに、墓の近くに、ワインで汚した服を着て立っていたくらいのことで、罪には問わることもなかろう」

 

 マサオの合図で、市護軍の兵士が入ってくる。

 

「違います! わ、私はただ命じられて……フェンド様に頼まれただけでございます!」

「赤子の手配はどのように?」

「そ、それは……身内の子です。女の幽霊だけでは足りないと……赤子が必要だからと、頼まれて……決して違法なことなどしておりません! 本当です。私はただフェンド

 

様に頼まれただけで――」

 

 女は、なにもしていない、私は知らない、と叫びながら、市護軍に連行されていった。

 叫ぶ声は、会議室を出たのちも聞こえていたが、そのうち諦めたようである。

 

 会議室に静寂が戻った。

 

 さて――とマサオは、パン、と手を叩く。

 

 流血を避けることはできなかった。

 だが、悔やむよりも先に、すべきことがある。

 

「ここで、事を明らかにしておこう。繊細な問題でもある。明らかにすべきこと、伏せるべきこと、守るべきことの線引きが要る。故人の眠りを妨げることなく収めたい」

 

 マサオの言葉に、異論はないようだ。

 ユーゴを除き、それぞれが簡単にうなずいてハラートを見る。

 

 しかしハラートは、重いため息をついたきり黙ったままだ。

 

「では、こちらが把握している内容を挙げていくとしよう。間違いがあれば指摘してもらいたい。――最近の話から始めよう。ミーファ王妃の亡霊の噂が、いかにして生成されたか、という話だ。先ほどのご婦人の態度でおわかりいただけたかと思うが、あれが正体だ」

 

 難しい顔で黙っていたシュルムトが、

「なぜわかった?」

 と問う。

 マサオは、

「カマをかけただけだ。背格好と髪の色がな、それらしいと思った」

 と答えた。

 シュルムトは片眉だけを上げ、呆れ半分の感嘆を示す。

 

「金の髪の赤子を抱いた女の幽霊の正体は、フェンド殿の息がかかった女性だった。――なぜか? 実の兄だ。妹の死に心を痛めることはあっても、妹の幽霊を偽装して世を騒がすなど、常であれば考えられん。だが、ミーファ王妃の名誉を回復せんとした――と見れば、その必死さも理解できぬこともない。言葉を飾らずに言えば、ミーファ王妃は不貞を働き、不義の子と共にハラート王子に殺された、というのが世が広く認識する事件の顛末だからだ。幽霊騒ぎまでしてフェンド殿が訴えたかったことは、恐らく一つ――ミーファ王妃は、不貞を働いてなどいない――ということだろう。これもまた耳に優しい話ではないが、不貞の相手は赤毛の男で、生まれた赤子の髪も赤かった、と伝えられていたからな」

 

 会議室は、静まりかえったままだ。

 マサオの話は、ややしばらくの間を置いて続いた。

 

「こちらでも、名誉を守らんとする者が騒動の元凶ではないかと推測し、調査はしていた。フェンド殿の身辺についても。――このあたりのことは、君に聞いたほうが早そうだな。ハラート」

 

 話をふられ、ハラートは心から不快そうに眉を寄せた。

 しかし、無視を決め込むこともなく、口を開く。

 

「……ミーファの兄は、金をたかりにきていた。――お前のことだ、もう調べてあるのだろう?」

「賭場への出入りが激しく、公職も追われ、実家とも縁を切られていたそうだ」

「――そういうことらしい。本人もそう言っていた」

 

 ハラートは舌打ちし、ますます眉のシワを深くした。

 

「なぜ、今、ミーファ王妃の幽霊が世を騒がせたのか――という問いに対しての答えがそれだ。フェンド殿の困窮が、幽霊事件の発端と言えるだろう。同情が、再仕官の道に繋がるとでも思ったのか――」

 

 ふん、とハラートは鼻をならす。

 

「フェンドが金の無心にきたには、一度ではない。二度か三度か……だが、俺の出した額が、不満だったのであろうよ。それならばこちらにも考えがある、と捨てゼリフを残して出ていった。その後、アイツがなにをしていたのかも、俺は知らん。だが、ミーファの名誉を重んじる心があるならば、あのようなバカな真似などできるものか」

「あの幽霊騒ぎは、余計な情報も付加されているな。血まみれで立っていることで、ミーファ妃が、君の手にかかった――と人は思うことだろう」

「死産だった。ミーファも産褥の中、命を落としている。幽霊を装った女の姿は、あの男の勝手な妄想の産物だ」

「なるほど。そこに君に金の出し惜しみをされた、フェンド殿の怨恨が滲みでていたわけだな」

「出し惜しみなどするものか。ないものはない。父からの援助は、とうに打ち切られている」

「――王都に戻れば、相応の援助が受けられると知りながら、君はダシュアンに留まっているのだからな」

 

 ハラートはムッと押し黙った。

 口を閉ざしたハラートに代わり、マサオはなおも続ける。 

 

「ハラートが困窮していたことについては、調べがついている。アガト公からの援助は断たれ、その日の酒にも事欠く有様。最近は調度品までも売り払っていたと聞く。ない袖は振れぬもの。たしかにフェンド殿に渡せる金などなかったことだろう。だが――定期的に、金を渡していた相手がいるとも聞いた。酒代に事欠き、あちこちの舞踏会に出ては酒をたかることになろうとも、その相手だけには金を渡していたようだ。王都に戻れば父親の援助が受けられる。にもかかわらず、ハラートはダシュアンの留まり、ある男に金を渡し続けていたわけだ」

 

 ウルラドが腰を上げ、

「出入りしていた男の人相は、白髪半ばで初老。背は高く細身。身のこなしから、宮仕えをしていたのではないか――と言われておりました」

 と報告をした。

 

 一人の男に、目線が集まる。

 そのような特徴を持つ男が、この場にいる。

 

 アガト公に仕えていたという、初老の、白髪半ばの男。背も高く、細身。

 

 しかし、当のユーゴに動揺の色はない。

 

「では、そろそろお話をうかがうこととしよう。――ユーゴ殿。フェンド殿も我らと同程度の情報を入手していたわけですな? ハラート王子が定期的に金銭を渡している男がいる、と。そして、フェンド殿は貴方の存在を突き止めた。まぁ、することなど一つでしょう。金をたかりにきたのですね?」

 

 ユーゴは「はい」と静かに肯定した。

 

「クロス伯のおっしゃる通りでございます」

 

 人一人を殺した直後、返り血をつけたまま。だがユーゴに取り乱したところが微塵もない。

 

「しかし、金の無心をされたからといって、人一人を殺すほどの動機であるとは思えぬのです。ユーゴ殿。フェンド殿の行いは、決して褒められたものではない。だがやはり、殺害という幕引きは過剰に思えます」

 

 マサオは、いったん言葉を止めた。

 ユーゴの目は、どことも知れぬ虚空を見たまま、動かない。

 

 わずかに、沈黙が下りる。

 

 チッとハラートが舌打ちし、どっかりと足を机の上に載せた。

 

「茶番はよせ。この場にいる者は、とうに知っているのだろう?……ミーファの産んだ赤子の髪は赤かった。それはたしかだ。俺はこの目で見ている」

「赤い髪の庭師の男は、君が手にかけたのだな?」

「あぁ。……その通りだ。俺が殺した。ミーファを殺したのも――」

 

 言いかけたハラートの言葉を、

「いえ、王妃に毒をお渡ししたのは、私です」

 と遮ったのは、ユーゴであった。

 

「私が、アガト公からお預かりした毒を、ミーファ様に差し上げました」

 

 虚空を見ていた目が、今はマサオをひたと見ている。

 

「なるほど。――王族の離婚は認められておりませんからな。不義を犯した王妃と別れるには、殺害する他なかったわけですか。いかにもアガト公らしい考え方だ」

「私が殺した、とも申せますし、アガト公が殺した、とも言うことができましょう」

「では、金の髪の赤子も、血まみれの姿でいたことも、どちらもフェンド殿の勇み足であったわけですな?」

「金目当ての狂言です。真実などどこにも含まれてはおりません」

 

 マサオの目も、ユーゴの目をまっすぐに見ている。

 

「どこにも――なに一つ?」

「どこにも、なに一つ。フェンド殿の狂言に、真実は僅かたりとも含まれてはおりません」

 

 堂々と、ユーゴは答えた。

 

「ハラート王子も、たしかに、幽霊騒ぎに動じている風はなかった。金の髪の赤子も、血まみれの女性も、事実に反する――と知っているのだから当然だ。ところが。彼は別

 

口の条件で激昂した。赤い髪の男が、赤い髪の赤子を連れて現れた時だ。酔っていたとはいえ、この時、ハラート王子は幽霊がさまよい出たものとして認識していた。――覚えているか? ハラート」

「……知るか」

「赤い髪の男、と聞いて、君は自らの手にかけた男の幽霊だ、と連想したのだろう?」

「あの男……庭師の男は赤い髪をしていたからな。ちょうど、その優男と同じ――」

 

 ハラートは、ウルラドの方をちらりと見て、それから、大きく目を見開いた。まさか……と呟いて。

 

「ご明察です。あれは、生まれたばかりの娘を腕に抱いた、私でした」

 ウルラドが胸に手を当て、軽く頭を下げる。

 

「くそ……! 小癪な真似を!」 

 

 ダン、とハラートは足を鳴らした。

 

「一つ、確認したいのだ。ハラート。君は、自分が殺した赤毛の男が彷徨い出てきたか――と酔いの中で思い、激昂した。赤毛の男が赤毛の赤子を抱いていたことを、認識できていたか?」

「……いや。赤毛の男の幽霊が出た、としか聞いておらん」

「君は、もし、赤い髪の赤子を抱いた男だ――と聞いていても、同じように亡者が彷徨いでたと認識していたか?」

 

 立腹の様子はなりを潜め、ハラートは「いや」と小さく言った。

 

「酔っていた。よく覚えてはおらん」

「君も頑固だな。――まぁいい。ではご一同。ここで問題が生じる。赤子の数が合わんのだ。ミーファ王妃の遺族は、両親と兄弟だけ、棺の中を見ている。――そうだな? ハラート」

「あぁ、そうだ」

「ミーファ王妃の棺を見たフェンド殿は、狂言にあたり、金の髪の赤子を用意させている。王妃の両親にも確認を取ったところ、赤子の髪は金色であったと言っていたそうだ。無論、娘の名誉のために偽りを言っている可能性もあるが……さすがに兄の方も、不義の子を宿したと知った上で金をたかりはしないだろう。彼らには、恐らく確証があったのだ。赤子の髪は金色で、不義の証拠にはならなかったことを」

「…………」

「――数が合わん。実際の赤子の髪は赤かったのだ。親族の見た金の髪の赤子はどこから来た? あるいは――赤毛の赤子はどこへ消えた?」

 

 もう、ハラートには床を蹴る覇気は残されていないようだ。

 がっくりとうなだれている。

 

「金の髪の赤子は、ユーゴが用意した。産褥の中でミーファは死に、死産であった赤子の髪も金色で、不義の子であるとの証拠にはなり得ない――という形に収めたのだ。フェンドも、見せられたままを信じていた……」

 

 かすれた声でハラートは言い、深い息を吐く。

 

「赤毛の赤子は、どこへ行った?」

「それは――」

「君はなぜ、王都に戻らずダシュアンに留まった? なぜユーゴ殿に金を渡していたのだ? ユーゴ殿は、因縁のある相手だろう。好んでつきあいを続けるとも思えん」

 

 ウルラドが「因縁? 伯、それは……」と問いを投げかける。

 マサオが答える前に、ユーゴが口を開いた。

 

「ミーファ王妃と、私の倅は恋仲でありました。――王妃のご成婚後は王都を離れ、四年前に死んだと報せだけ受け取っております」

 

 あ、とウルラドが声を上げた。

 

 ハラートが、まだ十六歳であったミーファを見初め、婚約者のいることを知りながら奪った。

 半ばさらうように塔へと連れていき、強引に婚約の儀を行ったことは、よく知られた話である。

 

 本人の意志とは関係なく、塔が承認したために、ミーファ王妃はそのままハラートの妻になったのだ。

 

 ハラートとユーゴが、互いに好んで縁を繋ぎたいと思う相手ではないことは明白である。

 

 その時、コンコン、と扉が鳴った。

 入ってきたのは、キュウトだ。

 

「失礼します、ご一同。――管理官。お耳を拝借」

 

 キュウトは、マサオの耳元に何事が告げると、そのままシュルムトに会釈をしてから着席した。

 

「さて――フェンド殿はなにゆえに殺されたのか、という話に戻るとしよう。金色の髪の赤子は、迷惑ではあるが、打撃ではなかった。なぜならば、王妃の子が金髪であると偽装したのは他でもない、ユーゴ殿とハラート王子であったのだからな。問題は、ハラート王子の困窮が、フェンド殿とユーゴ殿を接触を招いた時に起きた」

 

 それまで黙っていたシュルムトが、口を開く。

 

「己の懐に入るはずの金が、どこぞに渡っている。それをつきとめたフェンドは、ユーゴと接触し――都合の悪い存在を見つけたのだな?」

 

 マサオは「そうだ」とシュルムトに相槌を打った。

 

「今、コヴァド捜査官の言った通りだ。その上、追い打ちをかけて舞踏会の夜に赤毛の赤子まで出てきた。フェンド殿はさぞや慌てたことだろう。彼にとっては、あまりに都合が悪い事態だったのだからな」

「――いたのだな? 赤毛の赤子――いや、もう五歳になる子が」

 

 マサオは大きくうなずいた。

 すぐにキュウトが腰を上げる。

 

「男児は、こちらで保護いたしました。名はソントです」

 

 ユーゴが、大きく目を見開いた。

 

「ソントは? ソントは、今こちらに?」

「はい。保護いたしました」

 

 落ち着いていたはずのユーゴの態度は、一変した。

 そわそわと辺りを見渡し、呼吸も浅く繰り返される。

 

 ――やはり、いたのだ。

 闇に隠された幽霊が。

 

 存在を隠され、秘かに生き延びていた子供が。

 

「ソントは、私が育てて参りました。家に戻していただきたい。せ、世話をする者がおりますので、ご心配には及びません」

 

 ユーゴの態度は変わったが、マサオは変わらず続けた。

 

「フェンド殿は、なんと言って貴方に接触してきたのですか? ユーゴ殿」

「あ、あの男は金を寄越せ、と突然家に押しかけてきました。最初は、ただ金が目当てで来たのです。ですが……ソントには隠れているよう言いましたが、あの男は勝手に家に上がり込み、金目のものを探すうち、ソントを見つけてしまいました。……殺す、と。妹の産んだ子が、赤毛の子であるはずがない――と剣を抜きさえしたのです。ミーファ様の御子は、私の血縁ではございません。ですが、死んだ倅の婚約者だったお方の子が、私には他人とも思えず……孫のように思えてならなかったのです。守らねばならぬ……と思いました」

「それで、殺害を?」

「はい。ソントを守るためです」

 

 マサオは「ご協力感謝する」とユーゴに言ったあと、ハラートを見た。

 

「ハラート。君はその事実を把握した上で、ダシュアンの留まり、ユーゴ殿に金を渡していたのだな?」

「……そうだ」

「ソントに会ったことは?」

「ミーファが毒で死んだ直後は、すべてユーゴが始末をつけた。その時に渡して……一度、乳児の頃に見た。だが、それきりだ」

「では、わずか五歳のソントの身体中に、いくつものアザがあることも知らなったのだな?」

「なんだと!?」

 

 ハラートが、ギッとユーゴをにらむ。

 ユーゴは「違います。あれは、フェンド殿が……!」と強く否定した。

 

「アザは、新旧入り交じっていたそうだ」

 

 マサオの言葉に、ユーゴは黙り込む。

 

 ヴィゴも、そうだった。

 ニホンに去ったヴィゴの父親は、巨額の財産を息子のために残していった。

 

 母親は、その財産を使い尽くすと、ごく簡単に我が子を捨てた。捨てるまでには、多くの暴力が、ヴィゴを襲った。

 

 財産を背負った子が、もはや金を生まなくなる。

 その時、保護者の心になにが起きるのか、マサオにはわからない。

 

 だが、なにか共通するものがあるのではないだろうか。

 未来への不安か。それともこれまで愛情だと思っていた感情が、困窮によって色合いを変えてしまうものか。

 

「おのれ……! 貴様、なんということを! 孫のように思えると……大事に育てると言ったのは嘘か!」

 

 ハラートは、勢いよく立ち上がり、ユーゴの胸倉をつかみ上げた。

 

「貴方に、なにがわかる! 都合よく、金色の髪の嬰児が、手に入るとでも思ったのか!?」

「なんだと!?」

「棺に入れた嬰児を縊ったのは、この私だ。娼婦の子を金で買い、殺して棺に入れた! ただ茫然としていただけの貴方に、なにがわかるというのだ!」

 

 ハラートの顔が、歪む。

 

「ソントは、幸せに暮らしているものと……」

「王妃に毒を渡し、嬰児を縊った!……今も夢に見る! あんな血まみれの子が、幸せになど……違う、私は……失ったものを取り戻したかっただけだ。息子も……息子とミーファ様の間に生まれるはずだった、孫も……」

 

 悲鳴に似たユーゴの叫びは、すぐに嗚咽に変わった。

 ハラートの腕も力を失う。

 

 ユーゴは床に伏し、泣いていた。

 

 マサオには、ユーゴの苦しみも悲しみも、捻じれて複雑にからまった感情も、理解することはできない。

 この五年の間に、心を蝕んでいたものも。

 

 今できることといえば、ただ一つ。――幼い子供を守ることだけだ。

 

「――選択を、せねばならない。まだ幼い子のために、我らはよりよい未来を贈る義務がある」

 

 マサオの言葉に、シュルムトとウルラド、キュウトがうなずく。

 

 罪もない幼子を守る者が必要だ。

 闇はすでに暴かれた。もう秘された子は、幽霊ではなくなった。

 

 多くの悲劇は、幼子が未来を閉ざされる理由にはならない。

 

 

 ユーゴは市護軍に引き渡され、去っていった。

 

 シュルムトは、ハラートの肩にポンと手を置く。

 

 ゆっくりとふりかえったハラートは、

「会わせてくれ。――妻の子供に」

 と、頬を濡らして言った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その夜。

 ヤーヌの森幽霊事件捜査本部の解体が宣言された。

 

 王都に住む両親のもとにフェンドの眠る棺を見送ったのち、パヴァの邸で慰労会を催した。

 

 避けたかった流血は、避けることができなかった。

 

 救いといえば、ソントを保護できたという一事に尽きる。 

 

 

 鮮やかな赤い髪をした少年は、五歳という年齢の割には、とても小柄であった。

 細い手足は、病的なほどに白く、痣があちこちに浮いていた。

 

 出された食事をむさぼるように食べたあと、客間で眠っている。

 

 

 

「ヴィゴ」

 

 マサオは、中庭で月を見上げる少年に声をかけた。

 宴の席を外すことはめずらしくないが、本を読んでいないのはめずらしい。

 

「父上。――お見事な釣果でございました」

 

 ヴィゴは小さく笑んで、胸に手を当てた。

 

「なにが見事なものか。あと半日早く動けば、人一人死なずに済んだ」

「早く動けば、早く動いただけの歪みも生れたことでしょう」

 

 マサオは、この大人びた少年の評に苦く笑んだ。

 

 構造の輪郭は、見えていた。

 赤毛の親子の幽霊で揺さぶりをかけ、再び現れる可能性のあった幽霊を、その場で捕らえるのが最上の手だと思っていたのだが。

 

 フェンドの暴走が、思いがけず早い最期を招いてしまった。 

 

「だが、悔いは残るものだ。血を吐くような後悔が、成長に繋がることもある」

「……しかし、そうすべてを抱え込んではお辛いでしょう」

「自分の限界を設けて諦める方が、よほど辛い。多くを知れば、多くを背負うものだ」

 

 ヴィゴは、マサオの言葉をかみしめるように、うなずいていた。

 

 月が明るい。

 しばし、二人並んで月を見上げる。

 

「父上」

「なんだ?」

「……キュウト様は……ご存知だったのでしょうか?」

「どうしてそう思う?」

「ソントのことを、ご存知のようでした。なんというか……まるで、懐かしい人に再会したように。それでいて、初めて見る書物に出会った時のようでもありました」 

 

 キュウトは、未来からきた人だ。

 少年の頃に未来から過去に飛び、そのまま髪が白くなる年齢まで、今を生きている。

 

 この世界で、キュウトが生まれるのは、まだ先の話だ。

 世代は、マサオの孫の代にあたる。

 

 だから――知っていたのかもしれない。

 ソントという人を。

 

 彼にとっては、親の代にあたる人だ。

 面識があった可能性もある。

 

「……そうか」

 

 キュウトは、未来の話を決してしない。

 知りすぎることは、枷になる、と言って。

 

「……おかしなことを言いました。忘れてください」

「いや、サクラもどこか、不思議に未来を見通す力を持っているように見える。キュウト殿ならば、あるいは、そんな力を持っているのかもしれんな」

 

 キュウトは、きっと自身の死期も知っているはずだ。

 

 いずれ、ヴィゴは子を授かる。ヴィゴ同様に、ニホンから来て、ニホンに去っていった父親を持つアヤカとの間に。

 その子は、『キュウト』と名付けられる。

 

 恐らく、その頃、キュウト自身はすでに世を去っていることだろう。

 尊敬していた故人の名をつけることはあっても、存命の親しい人と同じ名を子につける親はいない。

 

「多くを知るということは……多くを背負うということなのですね」

 

 ヴィゴの背を、マサオはぽんと叩いた。

 

「あぁ、そういうことだ。余人には知り得ない、重さがある」

「……父上。ソントのことは――」

「心配いらん。まずは安全な場所で、休ませてやりたい。当面はダシュアンの別邸で預かることになるが、彼の未来については、国王陛下はじめ、王后陛下も、私も、真剣に考えている」

「我が家で、預かるのですね?」

 

 パッとヴィゴの顔が明るくなった。

 

「あぁ。いったんな。移動は難しい」

「よかった……ソントの心の傷も、きっと癒えることでしょう」

 

 自分と同じように――と言葉の外に聞こえた気がした。

 

 マサオにとって、それはなによりも嬉しい言葉であった。

 ヴィゴを引き取ったのは、見返りを求めてのことではない。

 

 それでも、なにかが報われたようにも思える。

 

 おやすみなさい、とヴィゴが笑顔で一礼した。

 

 そのまだ小さな背を見送り、マサオは一人杯を掲げる。

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 ヤーヌの森は、静かな場所だ。

 

 墓所に続く道であるからか、人通りも少ない。鬱蒼とした重い闇があちこちにある。

 

 

 馬車を下りたマサオが先を歩き、桜子がそのあとに続く。

 

「あぁ――あれだな」

 

 マサオが指をさした先には、小ぶりな墓石がある。

 

 ――イオの墓だ。

 親類縁者がないため、本来ならば集合墓地に埋葬されるはずだったイオは、今、墓の下に眠っている。

 

 ハラートが手配したそうだ。

 

 桜子は花束を墓の前に置き、手を合わせて「ミーファ様」と声をかけた。

 

「イオくんは、マサオさんがお預かりすることになりました。どうぞ、ご安心なさってください」

 

 ご挨拶ができてよかった、と桜子は笑顔で振り返った。

 

「なんだ。君が墓参りをしたいというから連れてきてみれば……王妃への挨拶は、王家の墓地にすべきだろう」

「あぁ……そうだった」

 

 ここに眠っているのはイオという青年だけだ。

 

「ここにいるのは、ソントの父親だぞ」

「じゃあ、イオさんにもご挨拶しておかないと。――イオさん、ソントくんのことはお任せください」

 

 また桜子は、墓に向かって手を合わせる。

 

 エテルナの巫女であった桜子という女性には、どこか神秘的なところがある。

 異国で生まれ育ったせいかもしれないが。

 

 夜の闇を照らす月の女神のように、人に見えるものを見通しても不思議はないようにも思える。 

 

 だから、というわけでもないが。

 なにやらマサオまで、この墓にミーファが眠っているような気がしてくる。

 

(ハラートのあの調子では、王妃の形見程度は、一緒に葬ってやったかもしれないが)

 

 ――いずれ、養子として迎えたい。

 ハラートが言っていた。

 いずれ、というのは、彼が公職に戻り、地盤を築いたのち、という意味だ。

 

 妻の遺児を育てるために、酒も断つ覚悟だという。

 

 

 

 墓の方を見ていた桜子が振り返った。

 

「これでよし、と。よかった。ご挨拶ができて――あら?」

「どうした?」

 

 桜子の目が、森の方を向いている。

 マサオは、その目が追う方を振り返った。

 

「今、白いドレスの女の人が――」

 

 

 まさか。

 

 幽霊騒ぎはもう終わった。

 捜査本部は解体され、新たな日常が始まったというのに。

 

「サクラ、あれは鳥だ」

 

 森の中に、白い鳥が見えた。

 あれを桜子は、白いドレスと見間違えたのだろう。

 

 まさか、冥府の亡霊が、感謝の念でも伝えに彷徨い出てきたわけでもないはずだ。

 

「あら、でも――」

「ただの白い鳥だ」

「あぁ……本当。鳥ね」

 

 

 白い小さな鳥は、一声鳴くと、羽ばたいて飛び立った。

 

 近くにいたらしい仲間の鳥がそれに続き、2羽の鳥は戯れるようにくるくると位置を変えながら、空に向かって飛んで行き――

 

 すぐに、その姿は見えなくなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「クロス伯爵の事件簿 -ダシュアンの亡霊-」・完

 

 

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