第4話 二人の赤子

 

 

 

 コヴァド大公妃・パヴァの別荘で、大規模な舞踏会が行われる――という情報は、会議の翌日のうちに広まった。

 ダシュアン中の貴族の家々に招待状が配られ、にわかに市内は沸いた。

 

 それも主催に名を連ねるのは、クロス伯爵。

 

 ふだん、社交の場にはめったに出てこないマサオである。いかにお近づきになりたいと願ったところで機会もなく、接触は簡単なことではなかった。

 この機を逃してなるものか、と王都から遥々参加を決めた者もあるという。

 

 ふるまわれるのは、パヴァが各国から集めためずらしい酒に、クロス家が所有する秘蔵のブドウ酒。

 西方の香りよい果実に、北方の濃厚な肉料理。そして近郊の港から運ばれた魚介料理の数々――という噂である。

 

 クロス伯伯爵夫人・ナーヤと、宰相夫人のサヤも参加を表明した。王都四大華のうち三人がそろうのだ。

 

 開催までの期間は十日もないというのに、豪勢な話である。

 

 

 

 そして、舞踏会当日。

 パヴァの邸の門には、多くの貴族たちが列をなした。

 

 

 

 

「コヴァド王の御代に栄えあれ!」

 

 マサオが来賓を前にグラスをかかげると、会場が揺れるほどの唱和が起こった。

 

 楽団が華やかなワルツを奏で、舞踏会が始まる。

 

「マサオ様!」

 

 マサオに駆け寄ってきたのは、彼の妻のナーヤだ。

 微笑みを湛え、目がキラキラと輝いている。

 

 こんな妻の顔を見るのは久しぶりだった。

 

 ほっそりとして背の高いナーヤに、薄紫のドレスはよく似合っている。

 髪にさした紫の花々も、彼女の清楚な雰囲気を柔らかく飾っていた。

 

「楽しんでいるか?」

「えぇ、とっても! ドレスも新調していただいたし……それに、貴方も出席されるなんて、素晴らしいわ」

「よく似合っている。しかし、君がそんなに舞踏会を好んでいたとは知らなかった」

 

 あら、いやだ、とナーヤは朗らかに笑った。

 

「伯爵家に嫁ぎながら、こんなに舞踏会と無縁に年を重ねるなんて思いませんでしたもの。さすがにこれほど間が開けば、楽しいとしか思えませんわ」

「これからは改めよう。舞踏会も悪くない」

「なんだか気味が悪いわ。……どうかなさったの?」

「いや。妻の笑顔に勝る宝はないと思っていたところだ」

「今頃お気づきになったのね」

 

 ナーヤは声をあげて笑った。

 

「楽しむといい。少し外すが、あとでダンスを誘いにいこう」

「今日のマサオ様は、マサオ様じゃないみたい。なんだかおかしいわ」

「では、のちほど」 

 

 マサオは妻の手に口づけて、その場を離れた。

 

 人々の群れの中を、マサオは進んでいく

 

「クロス伯爵。この年代もののブドウ酒のコクは素晴らしいですな」

「こんなにおいしいお酒、はじめてですわ。ぜひ、また呼んでくださいませ。本当に、素晴らしい夜です」

 

「どうぞ、ごゆるりとお過ごしください。よい夜です」

 

 来賓たちの挨拶に、マサオは彼らしからぬ明るい挨拶を返す。

 目的地は、入り口近くで待機しているヴィゴのところだ。

 

「釣れたか?」

「はい、釣れました! 偽名も使わず、堂々とお越しに。まさか本当に酒で釣れるとは思っていませんでした」

「それだけ困窮しているということだ。選べるものならわざわざ来るまい。――よし、では計画どおり、あちらの露台にお招きしてくれ。秘蔵の糖酒を進ぜる、と言ってな」

「はい。行って参ります」

 

 マサオは、手近にいた給仕係に「例のものを持ってきてくれ」と頼んだ。既に作戦は邸の全員に伝わっている。

 先に露台についたマサオのもとに、簡単な卓と椅子が運ばれてきた。

 そこに糖酒の瓶とグラスが載る。

 父から受け継いだ、秘蔵の糖酒だ。

 

 給仕が下がるのとほぼ同時に、男が露台に出てきた。

 

 酒くさい。

 場所を露台にしておいて正解だった、とマサオは思った。

 

「大層な宴だな、クロス伯。さすがは今をときめくコヴァド王の腰巾着。豪勢なことだ」

 

 男が小ぶりな椅子に勢いよく腰を下ろせば、ギシリと椅子が悲鳴を上げる。

 

「久しいな、ハラート」

 

 ハラートは、アガト公の嫡男だ。

 前王のユリオ三世の甥の一人で、シュルムトにとっては従兄にあたる。

 

 なにかと問題の多い男ではあったが、最後の最後までシュルムトと王位継承権を争い、そして敗れた。

 

 目の下のクマがひどく濃い。生活のすさみ具合がうかがわれる顔色だ。

 なにより、ずいぶんと肥えた。

 

 マサオがハラートと縁があったのは、学習院の同期として机を並べた時期だけだ。

 あの頃とは、身体の線がまったく違う。顔の輪郭さえ別人のようである。

 

「用があるのは酒だけだ」

「まぁ、飲みたまえ。同期のよしみだ。王にさえふるまったことのない秘蔵の酒を進ぜよう。かの海賊王デリ・イヴァンが愛した糖酒だ」

「ふん。まさか貴様に酒を注がれる日がこようとはな」

 

 マサオが渡したグラスを受け取り、ハラートは酒が注がれるのを待っている。

 その手が、震えていた。

 

 なにも、マサオに緊張しているわけではないだろう。

 

(噂どおりの有様、ということか)

 

 公職を放り出し、父親のアガト公からの援助を頼りに、今はダシュアンで酒浸りの生活をしている――とは聞いていたが。

 まさしく、酒浸り、という言葉に相応しい有様だ。

 

「最近、君の噂をよく聞く」

 

 ぐい、と一気に糖酒をあおり、ハラートは「うまい」と声をあげる。

 

「どうせ、あの幽霊の話だろう」

「まぁな」

 

 また差し出されたグラスは、やはり震えていた。

 次に注ぐと、今度は一気にあおることなく、ちびりと舐める。

 

「……それともあちこちの舞踏会に顔を出しては、酒を飲み、ブドウ酒の瓶をかすめて帰っていく――とでも聞いているのか?」

「それも聞いている。だが、酒の味は忘れていないようで安心したぞ」

「うまいものはうまい。持ち主が誰だろうと酒の味は変わらん。安酒続きで辟易していたところだ。……しかし、美味いな。臓腑に染み渡る」

「君の話を聞くために、大盤振る舞いしたのだ。味がわからんようでは甲斐がない」

 

 ちびり、と酒をなめ、ハラートは目を細めた。

 

「なんだ。お前が遠慮など、らしくないな」

「そう言うな。私にも遠慮くらいはある」

「なにが聞きたい?」

「あの幽霊は、君の奥方なのか?」

 

 ふん、とハラートは鼻で笑った。

 

「なんだ。答えを渋ればもっとこの酒を振舞ってもらえるわけか?」

「好きにしたまえ」

 

 マサオは瓶を差し出し、半分まで減ったグラスに糖酒を注ぐ。

 

「あれはミーファではない。夫の俺が断言する。……下らぬ茶番だ」

「そうか。違うのだな。君が言うなら間違いない。いや、それを聞いて安心したぞ。あの占い師も、ダシュアンを騒がす幽霊が――と言っただけで、王妃の幽霊だと名指ししたわけではないのだ」

「……なんの話だ。占い師だと?」

 

 ハラートの、酔いに濁った眼に、けげんそうな色が見える。

 

「あぁ、最近ダシュアンでは流行っているそうだ。よくあたると評判の占い師でな。知らんのか?」

「知るか。女子供の戯言だ」

 

 その時、わぁっと会場で歓声が上がった。

 作戦どおりとはいえ、完璧なタイミングである。

 

「まぁ、本当に!? 信じられない。もうないものと諦めていたのに! ――あぁ、なんということでしょう!」

 

 パヴァの声だ。

 ざわめきの中でも、彼女の声はよく通る。

 

「本当にありましたわ、皆さん! ご覧になって!」

 

 一段高いところにいるパヴァの、白い手が見える。

 手には首飾りがかかっていた。

 

 わっと拍手が起きる。

 

「あれだ。――各地の酒やら珍味やらを取り寄せるからには、西方の楽団でも招いてはどうかと思ったのだが。あいにくと都合がつかなかった。代わりによんだのが、あの――ポヴァリの占い師だそうだ」

「くだらん。貴様らの道楽など知ったことか」

「よくあたる。なくしたと思っていたパヴァ様の首飾りも見つかったらしい」

 

 バカバカしい、と言ってハラートはグラスを空けた。

 

「茶番だ。そろいもそろってバカばかりだな」

「いかんせん異国の言葉ゆえ、多少こちらの言葉と齟齬は生じるように思えるが……その占い師がな、あの幽霊のことを言いだしたのだ」

「……なんと言った?」

 

 空いたグラスに次を要求することなく、ハラートは問うてきた。

 

「いや、本当に不思議な女でな。私の、山ほどある蔵書の中にはさまっていた覚書を言い当てた」

「それはいい。その女は、なんと言ったのだ」

「それがな――」

 

 マサオは、やや声を落とした。

 ハラートが身を乗り出す。

 

「もったいぶるな。言え」

「あの幽霊は、怨霊だと言うのだ。『王都に近く災いを齎す疫神と化すであろう』と」

 

 やや真剣な表情をしていたハラートは、ふいに興味を失ったらしい。

 身体を椅子の背にどっかりとあずけて、ふん、と鼻息を吐く。

 

「バカなことを言うな。なにが疫神だ」

「大がかりな祈祷の計画もある。ただの幽霊ならば退治できるが、これが王妃となると話は違ってくる。違うのだな?」

「違う。あれはただの女だ。疫神になどならん」

「ならばいい。安心して祈祷にかかれる」

 

 ふん、とハラートは鼻をならした。

 その瞳は再び、酔いに濁る。

 

「なにが祈祷だ。……阿呆め」

 

 ハラートは、またグラスを差し出す。

 阿呆というのは、シュルムトのことか。あちらはあちらで従兄を阿呆と呼んでいたのを思い出す。

 

「その辺にしておけ。飲み過ぎだ」

「うるさい。阿呆の腰巾着が。俺は酒を飲みにきたのだ。酒を飲ませろ。なんでもいい、酒を――」

 

 音楽が、ふいにやんだ。

 

「で、出た!!」

 

 男の声が、あたりに響いた。

 

「幽霊だ! 幽霊が出た!! ……ヤーヌの森に……!」

 

 露台にいた、マサオの耳にもはっきりと聞こえる。

 ハラートは深いため息を吐き、バカバカしい、と再び呟く。

 

「赤い髪の男だ! 赤髪の男が、血まみれで……」

 

 しかし。

 赤い髪の男、と聞くなり、ハラートが立ち上がった。

 ガタンと椅子が派手な音を立てて倒れる。

 

「――――!」

 

 そこに、占い師の声が響く。

 異国の言葉だ。

 女の占い師が声を張り、通訳の男がさらに大きな声で告げた。

 

「怨霊でございます! 非業の死を遂げた怨霊が、この世にさまよい出たのです!」

 

 ハラートの目に、憎悪が燃える。

 

「おのれ! 今さらなんの恨みがあって……! 許さん!」

 

 目を血走らせ、ハラートは腰の剣をさぐった。

 舞踏会への帯剣など認められるはずもなく、手は空を切る。

 

「ハラート、落ち着け。糖酒を飲んだばかりだぞ」

「また、その首叩き落としてくれる!」

 

 のしのしと大股に歩き、ハラートは露台をあとにした。

 そして――

 バターン! と、これもまた派手な音を立て、その場に倒れてしまった。

 

 喉を焼く糖酒を、立て続けにあおったのだ。無理もない。

 

「きゃああ!」

「あぁ! ハラート様が!」

 

 貴婦人の悲鳴が響く。

 そのあとに、さらに男は叫んだ。

 

「赤い髪の男が、赤ん坊を抱いていたんだ。赤い髪の赤ん坊だった!」

 

 ざわめきが、会場を包む。

 赤い男の幽霊、などと聞いて、人々が、あの庭師の男を思い出さないはずがない。

 

 ――どういうこと? 赤い髪の男が?

 ――赤ん坊の髪まで赤かったですって? 

 ――意味がわからんぞ。それも怨霊というのは……

 ――どっちが本物?

 

 女の幽霊は、ミーファ。

 ならば男の幽霊は、不義を働いた庭師だろう。

 

 それぞれが胸に赤子を抱いていた。

 

 金の髪の赤子。

 赤い髪の赤子。

 

 数があわない。赤子が、多いことになる。

 

 来賓たちは混乱していた。

 

 ――そんなバカな。赤子が二人いるではないか。

 

 その上「殺してやる!」と叫んだのちに倒れたハラートは、使用人たちに運ばれるところだ。

 

 赤い髪の男の怨念もそれなりのものに見えないこともない。

 

 ――どういうことなの?

 ――意味がわからないわ。

 

 

 そのざわめきの中、朗々とした声が響いた。

 

「幽霊には幽霊の事情もございましょうが――生者にも生者の事情がございます」

 

 パヴァだ。

 ざわめく人々の視線が、ぱっと集まった。 

 

 社交界の華。黄金色の豪奢な巻き髪に、大輪の花を惜しげもなく飾った、美女が嫣然と微笑んでいる。

 

「さぁ、音楽を! 今日はたくさん踊りたい気分。どなたか、コヴァド大公妃と踊りたいという勇気ある方はいらっしゃいません?」

 

 パヴァが中央に進むと、楽団が華やかなワルツを奏で始める。

 

 では、と勇気ある初老の男が進み出る。

 

「私も、今日は踊りたい気分です」

 淡い紫のドレスを着た、ナーヤが笑みを浮かべれば、若い男が進み出た。

 

「私も。ダンスは久しぶりだわ」

 若草色のドレスの裾が、ひらりと舞う。

 サヤが優雅に手を差し出せば、すぐに横にいた男がその手を取った。

 

 曲はいよいよ盛り上がりを見せる。

 その時だ。

 貴婦人たちに続いて、ダンスに加わろうとした人たちの足が、ハッと止まった。

 

「今日は、私もお邪魔いたします。楽しい夜にいたしましょう」 

 

 人混みが割れ、そこには桜色のドレスをまとった桜子が現れる。

 王后マキタの登場に、人々は敬意を示して膝をまげた。

 

 来賓の熱気は、それだけでも十分に高まっていたが。

 その桜子がダンスの相手を求める前に、颯爽と貴公子が桜子の前にひざまずいたのにも、また驚きが広がる。

 王都一の剣士と名高い、ウルラドの登場だ。

 

「どうぞ、この忠実なる僕(しもべ)に、今宵貴女様と踊る栄誉をお与えください」

「喜んで」

 

 ウルラドがリードして、桜子は踊り始める。

 

 また会場の熱が高まった。

 

 舞踏会に桜子が参加することも、ウルラドが来ることも、事前に知らされてはいなかった。

 ――知らせるわけにはいかなかった、というのが正しいが。

 

 マサオも近くにいた貴婦人を誘って、踊り始める。

 

 王都五十六日戦争の英雄たちと、王都の四大華。ひとつの舞踏会に揃うのは、初めてのことだ。

 

 一曲目が終わった。

 拍手が起き、曲を共にした相手に、礼をして離れる。

 

 とたんに、拍手がぴたりと止まった。

 そしてすぐに、わっと大きな拍手が起こる。

 

(来たな)

 

 そちらに背を向けていたが、マサオにはわかった。

 

(大物が釣れた)

 

 まだ、ダンスには参加しないヴィゴが、目を丸くしているのが見える。

 口の動きが「大物すぎます!」と言っているようだ。

 

「コヴァド王の御代に、千代の栄えを!」

 

 誰かが叫び、誰かが続いた。

 グラスが音を立て、三度目の唱和は会場を揺るがすほどに大きくなっていた。

 

 マサオが振り向けば、そこにいたのはコヴァド王――シュルムトである。

 

 堂々たる姿の若き王。

 この英雄が、王都を危機から救ったのはわずか数年前のこと。誰もの記憶に、いまだ鮮やかだ。

 

 シュルムトは、驚いている妻に向かって礼をし、手を求める。

 嬉しそうに桜子は微笑み、その手を取った。

 

 横でウルラドが鼻を押さえていたので、一曲が限界だったらしい。

 

 マサオもナーヤを誘いにいく。

「さて。次は私と踊っていただけますか? 美しい人」

「喜んで」

 ナーヤは満面の笑みで、夫の手を取った。

 

 ワルツにのって、人々が踊り出す。

 

 美酒と山海の珍味。

 国王をはじめとする豪華な参加者。

 次々と奏でられる音楽の中、会場は大いなる興奮の中にあった。

 

 ――幽霊騒ぎを、忘れてしまうほどの。

 

 

 

 

 

 

 

 翌朝。

 

『ヤーヌの森幽霊事件捜査本部』第二回会議が、パヴァの別荘の二階で行われた。

 

 昨夜の舞踏会には、パヴァの邸だけでなく、マサオやウルラドの別荘の者たちも総動員された。片づけを終えた今日は、全員に休暇を出している。

 女性陣は楽し気に厨房で食事を作り、子供たちは池で大いにはしゃいでいた。

 

「よし、では始めるぞ」

 

 今日は桜子に代わって、シュルムトが会議に参加している。

 

 ウルラドが、まず、

「昨夜の幽霊騒ぎの首尾は上々です」

 と報告した。

 

「やはりお前か。そう簡単に赤毛の男と赤毛の赤子など揃うものか。足がつくぞ」

 シュルムトが、眉を寄せる。

 

「存外うまくいった。子供自慢の父親だとは、思われずに済んだようだ」

 ウルラドは、朗らかな笑顔を見せた。

 

「細君には、こちらからも厚く礼をせねば。こんな用事に赤子を使われては、さぞ不本意であろう」

「ダイヤンの壺で手を打ってもらった」

「なるほど。……では、こちらは織物でも贈るとするか」

「ありがたい」

 

 昨夜の『赤髪の男の幽霊』は、ウルラドであった。

 抱いていた赤子は、ウルラドの第一子であるところのシェンラである。

 

 ヤーヌの森で幽霊を装い、人に自分たちの姿を目撃させた後、赤子を妻に返して舞踏会の会場に移動したのだ。

 

 作戦はあっけないほど成功したが、シュルムトの顔は不機嫌である。

 

 無理もない。

 マサオは、シュルムトに偽りの手紙を送っている。

 

 ――近日中に大規模な舞踏会を催す予定がある。実はサクラが、ぜひとも夫たる君と踊りたい。けれど多忙なので無理だろう、とため息をついているのを聞いてしまった。ここは一つ、妻を喜ばせてやってはいかがか、と。

 

 シュルムトのことだ。

 マサオの言葉の嘘くらいは、見抜いていただろう。

 

 それでも、彼は来た。

 あの舞踏会における自分の役割を十分に理解した上で、最適な行動をとったところが彼らしいところである。

 人の目を幽霊騒ぎからそらし、話題をさらった。

 桜子と踊ったあとは、老若問わず、何曲も貴婦人らと踊っていた。

 

 今日も今日とて、会議にきっちり参加している。

 元来、真面目な男なのだ。

 

「昨夜の成果を、それぞれ発表してもらおうか。――まずは、モリモト捜査官」

 

 はい、と返事をしてキュウトが立ち上がる。

 

「私は昨夜、ポヴァリ族の占い師として、桜子と共に会場におりました。パヴァ様の首飾りを見つける座興のあと、桜子は着替えて舞踏会へ。私は――ハラート様の随員の方と少々お話を。手相が……あぁ、手のこのシワの形で運勢を見る占術が日本に伝わっておりまして。それを話題にハラート様のことをうかがいました。現在、ハラート様はアガト公からの援助を受け、ダシュアンの別荘街の一角にお住まいだそうです。再三、王都に戻るよう父君から言われているようですが、ダシュアンを離れるつもりはないようです。未練がましいことだ、と男はボヤいておりました」

「金まわりのことは? 聞き出せましたかな」

「はい。最初に、手相で金運がわかる、と話を持っていきましたので。アガト公からの援助はそれなりの額のはずで、呼ばれてもいない舞踏会に顔を出し、酒を飲み、酒をくすね……とせねばならぬはずはないのだ、と言っておりました。しかし、以前とは様子が違ってきている、とも。援助が打ち切られたのではないか、と邸の者は不安に思っているようです。使用人も減らし、何事も行き届かず、生活は荒れる一方だとか」

「ふむ……」

「これは推測として口にしておりましたが、何者かに金を渡しているようだ……とも。裏から出入りする者がいると邸の中で不審に思う者も多いとか」

 

 マサオは、あごをなでつつ「金か」と呟いた。

 

「重要な情報に感謝する。モリモト捜査官。こちらはハラート王子本人に話を聞いた。ひとまず、庭師のイオを殺害したのはハラート王子であることは間違いなさそうだ。赤髪の幽霊と聞いた途端、激昂していた。――ミーファ王妃の幽霊をバカバカしい、と言った男がだ。彼はおそらく、多くのことを知っている」

 

 そうマサオが言うのに合わせて、スッとウルラドが立ち上がる。

「幽霊の存在自体を信じていないわけではない、とすると……単純に、世に出回ったミーファ王妃の幽霊がニセモノだと知っていたから、とも考えられますね」

 

 シュルムトも続いて立ち上がる。

「なんにせよ、あの阿呆が持っている情報が一番多い」

 

 国王と宰相の息子、という組み合わせではあるが。

 もとは国軍の将軍であり、かたや王国の一の剣士。武闘派だ。恵まれた体躯の二人が並ぶと、壮観である。

 

「ここはひとつ、情報を提供していただくとしましょう」

「当人に聞くのが一番早かろう」

 

 ほぼ同時に二人は言うと、会議室を出ていった。

 恐らく、まだ倒れたまま寝ているハラートを連れ出すために。 

 

 マサオはその様子に、

「第三回の会議はなさそうだな」

 と感想を述べた。

 

 

 

 

 

 ハラートは、青黒い顔で机にもたれている。

 深酒をした翌朝であるから、さぞ具合も悪いことだろう。

 

 うぅ、とうなって、頭を押さえている。

 

「水を飲め」

「……うるさい」

 

 悪態はついたものの、ハラートはシュルムトが差し出したグラスを受け取った。

 一気にあおり、深い息を吐く。

 

 ゆっくりと顔を上げ――

 

「シュ、シュルムト! なんだ、お前、なんでこんなところに……」

 

 やっと、目の前にいる従弟の存在に気づいたようだ。

 

「ここは俺の母親の別荘だ。文句を言われる筋合いはない」

「母親?……あぁ、そうか。舞踏会が……」

 

 はぁ、とシュルムトはため息をついた。

 

「思い出したか?」

「幽霊が……幽霊は、どうなった!」

 

 ぎょろりと大きな目をむいて、ハラートはシュルムトに問う。

 

「赤毛の赤子を抱いていたそうだ」

「赤毛の? 赤子だと? バカを言え。……なにが幽霊だ。そこの赤毛を見て、騒いだだけではないのか?」

 

 そこの赤毛、というのはウルラドのことであるから、鈍った頭でも真実に迫っている。

 

 だが、目は強さを失っていた。

 赤毛の赤子――と聞いただけで。

 

 真実と、真実でないもの。

 ハラートの中では、明確な線引きができているようだ。

 

「……帰る。馬車を」

「まぁ、そう言うな。この茶番を終わらせたい。協力してもらおう」

「俺には関係がない。あんな茶番につきあっていられるか」

「茶番だ、と知っているのならばなおさらだ。あのような茶番で、得られるものなどなにもない。生者にも亡者にも、悲しみが広がるだけだろう」

 

 ハラートは、歯をむき出しにして、シュルムトをにらんでいる。

 

「お前に、なにがわかる!」

「わかるわけがなかろう。俺にわかるのは、阿呆な身内が、王都に戻れば酒代には事欠くまいに、わざわざダシュアンに留まり、人に酒をたかっているということくらいだ。何者かに金をせびられながらな」

 

 シュルムトは、またグラスの水を注いでハラートに差し出した。

 しかし、ハラートはそのグラスを手で払った。

 かしゃん、と儚い音を立ててグラスは割れ、水が飛び散る。

 

「……なにを調べた? 貴様、なにを知っている!?」

「優秀な捜査官たちが、ずいぶんといろいろと調べてくれた。おかげで俺がお前にする質問は一つで済む。――幽霊はどこだ?」

「なに? あんな茶番を信じているのか?」

「お前にならば、わかるはずだ。――幽霊は、どこだ?」

 

 一同は、固唾をのんで二人のやりとりを見ている。

 ――幽霊。

 それは、この幽霊騒ぎの首謀者のことだ。

 

「し、知るか」

「あとはお前のねぐらに張りこめば済む。お前に金をたかりにくる者を捕らえ、吐かせればいい。幽霊は白日のもとにさらされ、人に戻るだろう。我々にはそれができる」

 

 一度口を閉じ、開いて息を吸い、しかしハラートは首を横に振った。

 

「だめだ。あれは、幽霊としてしか生きられないッ」

 

 ちらり、とシュルムトがこちらを見る。

 マサオは、うなずいた。

 

「ハラート」

 

 名を呼び、ハラートの横に腰を下ろす。

 

「やめてくれ。闇を暴くな!」

「ハラート。我々は昨夜の段階で、君が金を渡している相手を探し始めている。幽霊は闇の中でしか生きられん。一度でもこの世にさまよいでてしまっては、もう――」

 

 頭をかかえ、ハラートはうめくように言った。

「やめろ、あの子は――!」 

 

(あの子?)

 

 マサオは、眉を寄せてシュルムトを見た。

 シュルムトは小さく首を横に振る。

 

 彼も把握していないようだ。

 

(ミーファ王妃の身内あたりが犯人か……とあたりをつけていたが)

 

 おかしなものが転がり出てきたものである。

 

 幽霊の目的は、ミーファの名誉を回復することだ。

 決して鎮魂のためではない。

 鎮魂を願うならば、怨念を示唆し、残された者の心を乱しはしないだろう。

 今や国王も決し、国事に関するような大きな利を求めてのことではない。

 ごく小さな、それも個人的な利。

 ――そうマサオは読んでいる。

 

 だが。

 ここにきて、転がり出てきた「子供」の存在が、マサオの読みを揺らがせた。

 いや、なにも推理が覆されたわけではない。

 

 新しい要素が追加されたことで、優先順位が大きく変わったのだ。

 

「その子が、幽霊か」

 

 マサオはハラートに問うでもなく問うた。

 

 ハラートは答えなかった。

 

「シュルムト。急を要する。ここにきて、人の生き死にが関わる問題になった」

「まさか……伯、それでは、本当に幽霊ではないか」

「兵を動かしてくれ。極秘に。我々は、人ひとりの命を救い得る」

「わかった。――ハラート!」

 

 シュルムトは、ハラートに近づくと胸倉をつかんで持ち上げた。

 

「な、なにをする!」

「時が惜しい。どこだ? 我らならば、幽霊を助け得る。明るい日の光の下、人として生きる道を示すことができるのだ。……ハラート。言え。どこだ!」

「……ハザン街東、下五番だ」

 

 力ない声が、答える。

 

 聞くなり、ウルラドは扉を開けて駆けていった。

 シュルムトが続き、階下に待機していた兵に命令を下す。

 

「父上、なにがわかったのです? 私も、ウルラド様と同行してもよろしいでしょうか?」

 

 ヴィゴがマサオの横に並ぶ。

 いつでも、どんな時でも言葉につまることのないマサオが、その琥珀色の瞳に向けて返事をするのが遅れた。

 

 そのヴィゴの肩に、キュウトが手をのせる。

 

「ヴィゴ。君は下で待った方がいい」

「キュウト様。しかし……」

「あとは父上に任せよう。私も、下に行くよ。これから、とても大事な役目がある。私は、君にもその大事な役割を一緒に担ってもらいたいんだ」

 

 キュウトは、マサオに「よろしいですね? 管理官」と尋ねた。

 尋ねたというよりも、確認をするように。

 

「あぁ、感謝する。モリモト捜査官。――ヴィゴ。とても大事な役割だ。君にしかできない。頼む」

 

 ぽん、とまだ小さな肩に手を置く。

 ヴィゴはマサオの言葉に、はい、と目を輝かせてうなずいた。

 もう子守はごめんだ、と言うこともなく、キュウトと共に会議室を出ていく。

 

 その背を見送ってから、マサオはグラスに水を注いだ。

 やおらその水をハラートにかける。

 

「な、なにをする!」

 

 うなだれて卓に向かっていたハラートが立ち上がる。

 ぐい、とマサオを胸倉をつかんだ。

 

「目を覚ませ、バカ者! その子は今どこにいる? 安全は確認できているのか? 無事だと言い切れるのか?」

「お前に……お前に、なんの関係がある!」

「君が金を渡し続けていた者が、今、幽霊騒ぎなどを起こしたのはなぜだ? 察するに、君がアガト大公からの援助を打ち切られたか、減額されたか――金まわりが悪くなったからだ。違うか? 幽霊騒ぎの首謀者は、次の金づるを探しているのだろう? そのためにミーファ王妃の名誉を回復する必要があったのだ」

 

 マサオがつま先だちになるほどに、ハラートは腕を持ち上げた。

 

「うるさい! 黙れ!」

「大概にしろ! 大バカ者!」

 

 ハラートの怒声よりも大きな声で、マサオは怒鳴った。

 気おされたのか、ハラートの腕の力がゆるむ。

 

「お前に関係は……」

「いいか! よく聞け! 金だけを目的に子を育てていた者が、金が手に入らなくなった時……どこに怒りの矛先が向かうか、考えたことがあるか!? 幽霊の企みは、昨夜の我らの作戦で潰えた。もはや一刻を争う! 今すぐ、その子を保護せねばならん。――幽霊はどこだ!? 君が救った、赤毛の子はどこにいる!?」

 

 ハラートの顔が、くしゃりと歪んだ。

 力を失い、その場に膝をつく。

 

「何年も……顔は見ていない」

「今すぐ君が連れてくるんだ、ハラート。その子は幽霊ではない。君の――子供だ。君が守れ。君にしか、その子を守ることはできん」

 

 ヴィゴの父親が、ニホンに帰還した後。

 母親は、ヴィゴを顧みることはなかった。

 そもそも結婚の時点で、大きな金が動いていたと聞く。

 父親がのこした金を、母親は使い尽くし、使い尽くしたあとのうっ憤は、薄情な男によく似た息子に向かった。

 

 マサオがヴィゴを保護した時、まだ三歳だった幼児の背には無数の傷が残っていた。

 ボロボロのシャツに沁みた、黒く変色した血。鮮血。

 あの凄惨さを、忘れた日はない。

 

「あれは、俺の子では……いや……いや、違う。……違う」

 

 ハラートは、ふらりと立ち上がった。

 

「行け。馬車は貸す」

「車はいらん。馬だけでいい」

 

 やっと目が覚めたものか。

 ハラートは、二日酔いの覚束ない足取りは最初の数歩だけで、あとはしっかりと歩いていった。

  

(無事であればよいが……)

 

 すでに、シュルムトもウルラドも動いている。

 彼らならば最善の形で、この愚かしい騒動に幕を引くことだろう。

 

 問題は、そのあとだ。

 

 舞台が終わっても、生きた人々の営みは長く続くのだから。

 

 

 

 

 

 

 

最終話

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